各文化財の紹介
小林一茶旧宅(こばやしいっさきゅうたく)
所在地
信濃町柏原48、49
指定年月日
昭和32年(1957) 5月8日
概要
江戸時代後期に活躍した俳人小林一茶(1762-1827)は、15歳で江戸に奉公に出ましたが、50歳の文化9年(1812)に故郷の柏原に帰りました。翌年、父の遺産半分を受けとり、弟と住居を二分して暮らしました。文政10年(1827)閏6月におこった大火で住居を焼失してしまい、焼け残った土蔵を仮住まいとしましたが、同年11月19日に没しました。史跡内にはこの土蔵と弟弥兵衛が大火ののちに建てたと伝わる民家が残されています。
藤野屋旅館本館(ふじのやりょかんほんかん)
指定区分
国-登録-有形文化財
所在地
信濃町柏原2711-22
登録年月日
平成22年(2010) 4月28日
概要
JR信越本線の黒姫駅前の通りに面した木造2階建て切妻造鉄板葺(きりづまづくりてっぱんぶき)の旅館建物で、背面側の屋根が下まで葺き降ろしています。2階は中央に廊下があり、南北に各四部屋を並べています。正面には庇(ひさし)をかけ、切妻屋根を中央に付けて玄関としており、明治時代末の旅館のたたずまいをよく伝えています。藤野屋の小林家は明治21年に信越本線が開通するとすぐに柏原駅(現黒姫駅)前に料理屋を始め、明治43年(1910)にこの建物を建設しました。
霊仙寺跡(りょうぜんじあと)
指定区分
県-指定-史跡
所在地
信濃町大井字日影、家添
指定年月日
昭和54年(1979) 3月22日
概要
山岳信仰の修験所の遺跡で、鎌倉時代にはすでに栄えていた記録が残されています。五社権現を祀り、前宮と奥ノ院があり、その別当寺(神宮寺)として霊仙寺がありました。応永11年(1404)の年号が刻まれた石水鉢があり、室町時代にも信仰の地として栄えていたことがうかがえます。戦国時代に焼かれましたが、上杉氏によって再興されたと伝えられています。杉林の中に霊仙寺講堂跡、前宮跡の礎石、鳥居の沓石(くついし)、石階段などが残されていています。
信州鎌の技法(しんしゅうがまのぎほう)
指定区分
県-選択-無形民俗文化財
所在地
信濃町大字古間
指定年月日
昭和47年(1972)4月6日
概要
信州鎌は長野県北部の北国街道沿いを中心に生産されている薄刃の片刃草刈鎌です。特徴は芝付(しばづけ)といって鎌身とコミ(柄をはめ込む部分)に角度がつけられていて、刈った草が手元に寄ってくるようになっていること、片刃型のために薄くて軽量で、よく切れることです。江戸時代の文化文政のころ(19世紀前半)にはその形ができあがっていたといわれていますが、現在もその技術は引き継がれ、十数軒の鍛冶屋さんによって生産されています。
手打ちそば(凍りそばの技法)
(てうちそば(こおりそばのぎほう))
所在地
信濃町大字柏原
指定区分
県-選択-無形民俗文化財
指定年月日
昭和58年(1983)7月13日
概要
手打ちそばが味の文化財に選択された際に、その一種として紹介されたのが凍りそばの技法です。凍りそばは手打ちのそばを冬の厳寒期に野外で一晩凍結させ、一月ほどかけて室内で乾燥させたものです。江戸時代末には作られていたと考えられていて、明治時代には信州柏原の名物として広く販売されました。湯を入れるだけで食べられるため、インスタント食品がなかった時代にその即席性が喜ばれたようです。一時製造されなくなりましたが、近年、復活され、おみやげ物として販売されています。
野尻一里塚(のじりいちりづか)
指定区分
町-指定-史跡
所在地
信濃町野尻756(東側)、野尻524-1(西側)
指定年月日
昭和47年(1972) 12月10日(東側)、昭和57年(1982) 7月12日(西側)
概要
国道18号線(旧北国街道)に一対で残る一里塚。一里塚は江戸時代のはじめ、江戸の日本橋を起点として一里(約3.9km)ごとに、旅の目印として主要な街道の両側につくられました。この一里塚は北国街道の宿駅が確定した慶長16年(1611)ころには築かれたものと思われます。一般に、塚の中央には榎(えのき)や松、桜などの木が植えられていたといいます。この塚には現在、古木ではありませんが、桜の木が植えられています。
民俗資料室(みんぞくしりょうしつ)
指定区分
町-指定-有形民俗文化財
所在地
公民館古間支館内
指定年月日
昭和56年(1981) 3月31日
概要
古間(ふるま)小学校開校80周年の記念事業で、昭和45年(1970)に住民から集められた民具が収められた資料室です。公民館古間支館(旧古間小学校校舎)の2階の一室にあり、農具や民具のほかに、雪国の暮らしや信州打刃物の資料などが保管されています。なお、旧古間小学校校舎は明治43年(1910)の建設で、築100年を超えた学校建築物です(耐震基準を満たしていないため、現在は閉鎖されています)。
懸仏(御正体)(かけぼとけ(みしょうたい))
指定区分
町-指定-有形文化財
所在地
野尻湖ナウマンゾウ博物館
指定年月日
平成6年(1994) 6月9日
概要
懸仏は神仏習合(しんぶつしゅうごう)の考え方から生まれ、銅などの円板に浮き彫りの仏像などをつけ、柱や壁にかけて礼拝するためのものです。昭和43年(1968)に旧野尻湖中学校グラウンド入口付近で中学生によって仏像の部分だけが発見されました。銅製の十一面千手観音像で、鎌倉末~南北朝時代のものとされ、高さ13.6cm、幅7.9cm、厚さ3.5cm、重さ387.2g。発掘調査等はおこなわれていないため、詳しいことはわかりませんが、戦国時代の野尻城や五輪塔の出土地が近くにあり、その武士団とのかかわりが考えられます。
杉久保遺跡出土石器(すぎくぼいせきしゅつどせっき)
指定区分
町-指定-有形文化財
所在地
野尻湖ナウマンゾウ博物館
指定年月日
平成6年(1994) 6月9日
概要
野尻湖の北岸にある杉久保遺跡から発見されたおよそ2万年前の旧石器時代の石器148点が指定されています。野尻上町の池田寅之助さん(故人)が集めていた石器の中から、細身で柳の葉のような形をしたナイフ形石器に対して、昭和28年(1953)に「杉久保形」の名が付けられました。この石器発見のエピソードは岩波新書「日本旧石器時代」(芹沢長介著)に詳しく紹介されています。
立が鼻遺跡出土骨器(たてがはないせきしゅつどこっき)
指定区分
町-指定-有形文化財
所在地
野尻湖ナウマンゾウ博物館
指定年月日
平成6年(1994) 6月9日
概要
野尻湖底の立が鼻遺跡で、およそ4万年前の地層から出土したナウマンゾウの骨でできた道具(骨器)です。クリーヴァー(なた)、ナイフ、スクレイパー、ヤリの先端(尖頭器)など6点が指定されています。火山灰土の堆積のために骨などの化石が残りにくい国内では骨器の出土例が極めて少ないため、たいへん貴重な資料です。旧石器時代の人々が石器以外の道具を使っていたことを示す数少ない証拠といえるでしょう。
野尻湖産大型哺乳類化石群
指定区分
県-指定-天然記念物
所在地
野尻湖ナウマンゾウ博物館
指定年月日
平成26年(2014) 9月25日
概要
ナウマンゾウの第一臼歯を含む化石群
信濃町の野鍛冶住宅(旧中村家)及び野鍛冶資料(しなのまちののかじじゅうたく(きゅうなかむらけ)およびのかじしりょう)
指定区分
県-指定-有形民俗文化財
所在地
信濃町柏原124ほか
指定年月日
平成28年(2016) 9月23日
概要
信州打刃物の里に残された古い鍛冶場を残す茅葺屋根の古民家です。動力ハンマーを導入せず、平成4年(1992)まで、中村与平・フデ夫妻(いずれも故人)によって全ての工程で手打ちの作業がおこなわれていたため、ふいごや松炭を使っていた明治時代以前の古い形態の鍛冶場が残されました。文部省唱歌「村の鍛冶屋」で歌われた風景を残す建物です。この家の内部に残る鍛冶場で使われていた鍛冶道具類(野鍛冶資料)733点を含め、近代設備導入以前の鍛冶のようすを知るうえで非常に資料性が高く、建造物と生業との関係を知るうえでたいへん貴重である。
古間区有文書(ふるまくゆうもんじょ)
指定区分
町-指定-有形文化財
所在地
一茶記念館
指定年月日
平成13年(2001) 7月19日
概要
旧大古間村の文書で、古間区で大切に保管されてきた文書の内、特に歴史的な意味が大きい10点が指定されました。上杉景勝の家臣が伝馬送りの仕事を免除するというもの(古間村宛上杉景勝家臣連署状)や、松平忠輝の家臣大久保長安らの名前で出された宿場の整備に関する文書(古間村宛松平忠輝伝馬屋敷下付証文)など、戦国時代から江戸時代はじめの、北国街道の宿場成立のころの様子を伝える史料です。
芭蕉の句碑(ばしょうのくひ)
指定区分
町-指定-有形文化財
所在地
信濃町野尻703
指定年月日
平成14年(2002) 12月9日
概要
碑文「うめが香に のっと日の出る 山路かな」俳人松雄芭蕉の没後130年にあたる文政6年(1823)に、野尻上町の仏心庵前に建立されたもので、信濃町でもっとも古い句碑です。裏面には一茶の門人の湖元舎魯堂(池田伝九郎)「痩垣も見所有もの帰りばな」、六如亭関之(池田十郎平)「むだ歩行せよ迚扇貰けり」の句が刻まれていて、俳句が盛んだった野尻宿の様子がうかがえます。
一茶の句碑(いっさのくひ)
指定区分
町-指定-有形文化財
所在地
信濃町大字柏原28 諏訪神社境内
指定年月日
平成14年(2002) 12月9日
概要
碑文「松陰に 寝て喰ふ 六十余州かな」大塚庚作(中野代官所の役人)筆。
小林一茶の三回忌にあたる文政12年(1829)に門人たちによって建立されたもので、一茶の句碑の中では最古のものです。柏原宿南方入口付近の橋の近くに建てられましたが、徳川の藩政をたたえた句であったため、明治11年(1878)の明治天皇北陸巡幸の際に諏訪神社境内に移されたと伝えられています。
黒田家住宅(くろだけじゅうたく)
指定区分
町-指定-有形文化財
所在地
信濃町富濃字水穴2545
指定年月日
平成17年(2005) 7月25日
概要
建築年ははっきりしませんが、江戸時代末から明治初年に建てられたと考えられる民家です。柴津村下組(水穴地区)の庄屋を務めていたこともあり、この地域の有力な農家の大形家屋の面影を色濃く残している建物です。間口13間(約23m)で、18畳の広さをもつ土間や18畳の茶の間、8畳の上座敷、10畳の下座敷などを備えています。
長月庵若翁の墓碑(ちょうげつあんじゃくおうのぼひ)
指定区分
町-指定-有形文化財
所在地
信濃町柏原1320 雲龍寺
指定年月日
平成19年(2007) 12月25日
概要
長月庵若翁(1734-1813)は松尾芭蕉の顕彰に尽くした江戸時代中期の俳人で、江戸では小林一茶との交流もありました。若翁は一茶の少年時代に柏原を訪れていますが、その頃の一茶とのかかわりについてはよくわかっていません。その後、若翁は全国を行脚し、再び訪れた柏原で文化10年(1813)に柏原宿本陣中村家で没しました。墓碑は一茶顕彰が盛んになる中、明治29年(1896)に柏原宿本陣中村家によって建立されました。
玉巵弾琴図(ぎょくしだんきんず)
指定区分
町-指定-有形文化財
所在地
信濃町柏原1320 雲龍寺
指定年月日
平成19年(2007) 12月25日
概要
紙本着色、六曲屏風、縦169.2cm、横352.2cm。葛飾為斎(かつしかいさい)画。一弦琴を弾く中国の伝説上の女性・玉巵と龍が描かれています。葛飾北斎の晩年の弟子で、師の作風を忠実に学んだ江戸時代末から明治時代初期の浮世絵師・為斎(1821-1880)の優れた大作であり、北斎門人の画業や北信濃とのかかわりを考える上で貴重な作品といえます。
菅川神社の大杉群(すがかわじんじゃのおおすぎぐん)
指定区分
町-指定-天然記念物
所在地
信濃町大字古海3999 菅川神社
指定年月日
平成20年(2008) 10月20日
概要
菅川神社境内にある杉の巨木のうち、3本が指定されました。最大の杉は拝殿前の大杉で、目通り(地面から1.3m上の幹周り)が8.2m、樹高が48.5mあります。次に太い山神社前の大杉は目通り5.8m、樹高47.7m、もう1本は本殿裏の大杉で目通り4.7m、樹高47.3mです。昭和59年(1984)に伐採した大杉は年輪を数えたところ980年であったことから、それよりも太い拝殿前の大杉は樹齢1000年を超えているかもしれません。
行善寺のタキソジュウム(ぎょうぜんじのたきそじゅうむ)
指定区分
町‐指定‐天然記念物
所在地
信濃町大字古間541 宗教法人 行善寺
指定年月日
平成28年(2016)3月25日
概要
タキソジュウム(Taxodium)はラクウショウ(標準和名はヌマスギ)の属名であり、本種は北米原産の樹木である。日本には明治初期または後期に種子で導入されたとされる落葉針葉樹で、羽状の葉が秋には落葉することから漢字表記には「落羽松」が使われる。タキソジュウム属は、古代に繁栄したメタセコイア属と同様に、現世では世界で数種のみが限られた地域でしか生育していない、「生きた化石」として知られている分類群の一つである。また、ラクウショウは原産地では湿地や沼地に生育するため、気根(呼吸根)を発達させる珍しい形態的特徴もあり、明治期に希少な外国産樹種として専門家によって導入されたものである。その後、各地で播種、植栽された個体の中には大径木にまで生長したものが県内でもわずか数本確認されており、「行善寺のタキソジュウム」は明治四十三年の本堂の本堂屋根葺き替えの折、越後の職人が記念に植えたとされており、その後も清水が湧く境内で地域の手で保育され、生育環境に恵まれたため大径木にまで生長し、現在に至っています。
戸草・芋川用水のホタル(とくさ・いもがわようすいのほたる)
指定区分
町‐指定‐天然記念物
所在地
信濃町 富濃字戸草
芋川用水上流放水路(頭首口)から戸草集落下流(ホタル水路)の区間
指定年月日
平成30年(2018)10月29日
概要
ホタルは世界で2000種類以上が確認され、日本では約50種類ほどが生息しており、うち発光するホタルは14種類程度といわれています。ゲンジボタル、ヘイケボタル、ヒメボタルの3種類は有名で、 特にゲンジボタルは、日本だけに生息するホタルで、生息条件として清流であること、餌となるカワニナがいること、川岸に幼虫がもぐれる土があること、などがあります。
戸草・芋川用水に生息するホタルは、ゲンジボタルとヘイケボタルで、ホタルの生息できる場所は素晴らしい自然環境が残されているということの証明であり、この生育条件と自然環境を保護することは、環境教育の重要性が増す中で極めて重要なことから、町の天然記念物として指定されました。
小川晃侍氏撮影